表現者は街に潜伏している。それはあなたのことであり、わたしのことでもある。
- 会期|
- 2019.11.30.-12.8(水・木曜日は休廊)
- 時間|
- 15:00-20:00
- 場所|
- パープルームギャラリー
- 企画|
- 梅津庸一 (パープルーム)
- 協力|
- パープルーム予備校
本展は1951年から1934年生まれの現在60代後半から80代半ばのシニア世代の作家5人による絵画展です。
彼ら、彼女らは戦後の日本、そして相模原の移り変わりとともに歩んできました。展覧会を開催するにあたり、出品作家の方々と実際に会ってお話しをしたり、制作の現場を見せてもらったりしました。しかし、ここでは敢えてそれぞれの作家、そして作品にまつわるエピソードは紹介しません。まずは先入観なしで実際に作品を見てもらいたいと思ったからです。
本展を開催しようと思った経緯や背景を中心に述べたいと思います。
「美術とはアートとはいったいなんだろう?」そして「その担い手は誰なのか?」そんな根本的でありながらも立場によって、まるで意味合いが違ってくる問いを下敷きに本展は企画されました。
「美術・アート」とひとえに言っても、洋画、日本画、彫刻、現代アートなど多岐にわたり、それぞれの中での「理念」や「政治」に従って駆動しています。しかしながらそれぞれのクラスタは重なり合うことなく島宇宙化しているというのが現状ではないでしょうか。
もちろん、それぞれのクラスタが固有のルールのもとで活動するからこそ発展し専門性が高まっていくという側面はあるでしょう。現代アートで言えば、美術館という場をパブリックに開こうとしたり、美術館の裏方の監視員や作業員にスポットを当てる試みがなされたり、展覧会でタイカレーを振る舞ったり、「人間は誰でも芸術家である」と謳うアーティストが現れたりと、アートという領域を美術関係者だけが独占しないように時には自己言及・自己批判しながら展開してきたように思います。しかしながら、美術史・アートヒストリーを紐解いていけば残っているのはアーティストやキュレイターや批評家の固有名や功績ばかりであり、観客や大衆との非対称性はどこまでいってもなくなることはありません。別にそれ自体は悪いこととは思いませんが、ではなぜ権威性を保持しながらも開かれた身近なアートということをことさら強調してきたのでしょうか。
近年、現代アートに於けるひとつの大きな潮流としてソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)が挙げられます。SEAは絵画や彫刻などのマテリアルを作品とするのではなく、現実の世界に積極的に関わり「対話」や「議論」を通じて、人々の日常から既存の社会制度にいたるまで、何らかの「社会変革」をもたらすことを目的とした2000年代から盛んになった比較的新しいアートの形態です。
しかしながら日本に於けるSEAは「社会変革」をもたらすどころか政治的信条を推しはかり、連帯と分断を生み出す「踏み絵」の役割を担ってしまっているケースも散見されます。また、マイノリティーとされる人々を作家が自作の「素材」として扱う際の手つきにも問題がないか、もっと丁寧に見ていく必要があるのではないでしょうか。
また「この狭い日本のアートシーンの中で」という声をたびたび耳にします。しかしながらこの「アートシーン」とは、はたして一体どこからどこまでを指しているのでしょうか? WHOの2018年の統計では日本の人口は約1億2774万人、世界で10番目となっています。ちなみに、日本が近代美術の制度を輸入したフランスは現在、約6699万人です。日本という国では印象派や若冲の展覧会を開催すれば何十万人という観客が押し寄せます。つまり美術・アートに高い関心を持っている国だと言えます。それにも関わらず、日本のアートシーンが狭いというのであれば、それは「わたしたち」がある特定の狭い領域にしかアートシーンを見出していないということを意味しているのではないでしょうか。
そんなことをぼんやりと考えていたある日、わたしは何気なく立ち寄った相模原市民ギャラリーで見た展覧会に深い感銘を受けました。それは「第70回相模原市民文化祭 絵画展」という展覧会で、150点もの洋画や日本画が会場の壁を覆い尽くすように横一列で隙間なく並んでいました。主に相模原市在住のシニア世代による展覧会です。わたしはこの手の市民による絵画展をこれまでにも何度も見てきました。しかしながら今回、その真価をはじめて実感することができた気がします。
そしてあらためて気づいたことがあります。それは、定年後、あるいは子育てがひと段落して絵を描き始める人は「現代アート」のプレイヤーよりもずっと多いということです。単純なことかもしれませんが、とても重要なことだとわたしは思います。会場の作品に添えられたキャプションには作者の名前や、作品のタイトルだけでなく住んでいる町も記されており、わたしが主宰するパープルーム予備校のすぐ近くにも何人か住んでいることがわかりました。
もともとは“軍用道路”としての側面も持っていた国道16号沿いにはチェーン店が建ち並び、大型トラックが行き交っています。またJR相模原駅北口を降りると相模総合補給廠という在日アメリカ陸軍の補給施設があります。それは隣駅である矢部駅まで続くほど広大な敷地を有しているにも関わらず、すでに街の一部として馴染んでいるように見えます。そんな一見、文化的な雰囲気のない殺伐とした郊外の街のいたるところに「表現者」が潜伏しているのです。いつもわたしが通る住宅街やマンションの中でこんなにも多くの作品が生み出され続けていたのか、と衝撃を受けました。
相模原市民ギャラリーで展示されていた作品の大半は絵画教室や公民館の美術サークルで活動する人々による作品です。出品されている絵画作品は「洋画」と「日本画」というカテゴリーに分類され人物画、風景画など、きわめてオーソドックスなモチーフやスタイルが採用されています。洋画と日本画という区分は明治期に日本が西洋から油絵をはじめとする制度全般を移入した時のなごりです。
しかしながら、会場に展示されていた絵画作品はどれも近代絵画に根ざしたコンサバティブなものではなく、新鮮さと驚きに満ちたものばかりでした。それも、たんに素朴であるとか、美術史から外れた規格外の面白さとかそんなことではなく、油彩画や日本画というメディウムがまさに美術の制度に規定されることなく厚みをもった人間の営みとして物質に還元されていたのです。
絵画はこれまで美術史の中で殺されたり、もてはやされたりしてきましたが、ここにはこの何十年もの間人知れず積み重ねられてきた別の絵画史がたしかに蓄積されているのです。別の言い方をすれば、戦後間もない頃から続くこの営みの中で、西洋から移入された美術という制度、あるいは既存の絵画史のコンテクストやコードに依拠しない別のロジックが構築されてきたと言えるのではないでしょうか。それは「抽象表現主義」、「コンセプチュアル・アート」、「ニュー・ペインティング」、「ポスト・インターネット」など目まぐるしく移り変わってきたその時々の時流にほとんど左右されることなく、ゆっくりと連続性を保ちながら練り上げられてきました。
ところで「わたしたち」のアートの現場では学閥やキャリアがことさら重要視されます。美術大学出身ではない者を「独学」で、と強調する習慣もそれを如実に物語っています。「わたしたち」は自らの既得権益を守るためにほとんど無自覚的にアートシーンを狭め、部外者の流入を制限し、抑圧し続けてきたのではないでしょうか。
前述したように、「わたしたち」の美術史は大きな固有名を連ねることで編纂されてきました。それらは誰かに参照され、新たなリンクが張られるたびにより強化されていきます。絵画教室の先生は団体公募展系であることが多く、その意味では彼ら彼女らが既存の美術史から完全に切り離されているとは言い切れません。しかし、美術館にコレクションされている巨匠の作品と隣同士で並ぶ機会はほとんどないと言えます。仮に著名な作家の作品と比べて、全く引けをとらない仕事をしていたのだとしても、です。美術史とはそういった不均衡や欠陥、権威性もろともを記録する収蔵庫なのかもしれません。
しかし、わたしはどうしても納得がいきません。そもそも彼ら、彼女らは美術館で展示することや、作品を批評されることを望んでいないかもしれません。それでも、こんなにも身近なところで展開され、達成されている表現の営みを多くの人が知らずにいることは損失でしかないと思うのです。今日、多様性や多元性を謳ってきた「現代アート」は進むべき方向性を見失い、ジャンルとしての体を保つことで精一杯なように見えます。だからこそ、美術・アートとはそもそも何か、ものを作るとは、その担い手とは一部の専門家や愛好家なのか、といった根本的な問いにわたしたちは立ちかえる必要があるように思います。
パープルームは本展をきっかけに「アートシーン」の外側にいる「表現者」とより積極的に協働していこうと思っています。「政治的信条」や「クラスタ」や「世代」にとらわれず、一緒に制作をしたり展覧会をしたり、ご飯を食べる。これは「対話」のための「対話」でもなければ、アーティストが作品として回収する「プロジェクト」でもありません。
全国の市町村にも「表現者」は相模原と同様に潜伏していることでしょう。いや、潜伏しているのは「わたしたち」の方なのです。「アートシーン」自体を押し広げることこそが今、必要なことだと思います。
本展をパープルームギャラリーで開催できることを心から嬉しく思っています。
梅津庸一
兼田なか
1935年生まれ
千葉県出身
宮崎洋子
1951年生まれ
神奈川県出身
吉村孝志
1940年生まれ
宮崎県出身
内田一子
1947年生まれ
東京都出身
續橋仁子
1934年生まれ
神奈川県出身