《「花粉の王国」の閉塞作戦とサルベージ船》 2020 -2021年 h.36.7㎝×w.71.1㎝×d.61.8㎝

Dirty Pollen
悪い場所からの遊離

会期|
2021.4.8-4.17(水曜日は休廊)
時間|
15:00-20:00
場所|
パープルームギャラリー
企画|
パープルーム
協力|
パープルーム予備校

本展について



本展は「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019」への応答の意味合いを含んではいるが「平成美術」展の関連企画ではなく、あくまでも自主的に企画されたものである。まず、本展が企画された背景を簡単に説明したい。
美術館という場で、しかも平成年間を総括する展覧会への参加は椹木の想定する美術史観に仮止めされることを意味する。パープルームは現在も活動中の運動体である。これからも形を変えながら続いていくだろう。しかし「平成美術」展への出展作《花粉の王国》はパープルームの活動を紹介できて「良かった」では済まされない重い宿題をわたしたちに残した。
常日頃から美術史を内面化し活動している運動体パープルームは「平成美術」展の場合もほとんど無意識のうちに「平成美術」を基底面として設定し、癒着してしまったと言えるかもしれない。それはパープルームという運動体の組成が、いわば歴史や美術史と不純物の化合物であるということに起因する。つまり、誰からも頼まれていない「要請」を勝手に引き受け組まれたのが《花粉の王国》であり、パープルームの活動を程よい解像度で図解したものとも言えるだろう。わたしは美術館にでろんと広がる大きな標本としてのパープルームを見て(厳密に言うとそれはプランの段階からわかっていたが)いてもたってもいられなくなってしまった。パープルームを再び起動させなくては、と。
また、本展に先立ち、京都市京セラ美術館からほど近い現代美術 艸居で開催された梅津庸一個展「平成の気分」(3月5〜27日)もまた、「平成美術」展に対する条件反射的な応答とも言える展覧会だった。「平成の気分」は「平成美術」展では触れられていないマイクロ・ポップ的な感受性やパーソナルな部分を起点に展開した。それは梅津の意識と無意識の境界としての浅瀬の海に有形無形の漂流物が浮かび滞留するイメージを会場に具現化したものだった。また、ステートメントではパープルームが提唱する「花粉」は椹木の言う「悪い場所」や「傷ついた時間」の影響をある程度は回避できるのではないか、という主張もなされた。
しかしながら、空気中を漂う「花粉」に可能性を見るだけではたんに偶然に身を委ねるのとなにも変わらない。本展「Dirty Pollen 悪い場所からの遊離」ではパープルームの拠点である相模原で花粉がどのように発生し、受粉する可能性があるのか、そして花粉を運ぶための気流を生み出すことは可能なのか、そして花粉自体の性質について考察したい。

椹木野衣の提唱する「悪い場所」は日本の美術、とりわけ「現代美術」が拠って立つ下部構造の歪みやねじれを指摘し白日の下に晒す狙いがあった。そして2011年の東日本大震災を経て椹木は「悪い場所」というタームを修正し地理的な条件を加え、より逃れがたい概念としてアップデートした。さらに「平成美術」は「傷ついた時間」とも言い換えられており、「悪い場所」性を時間の領域にまで押し広げたと解釈できるだろう。

平成美術展は世界標準に無理に最適化しようとする日本における現代美術とは一線を画す集合・集団的活動を紹介する試みである。しかしながら、その基準や根拠は椹木の中でもまだ未整理の状態なのではないだろうか。「平成年間」が天皇の生体に規定された時間であるならば、「平成美術」展は椹木の生体に規定された展覧会と言える。展覧会のキュレーターである以上それはどの展覧会にも当てはまるだろう。しかし、わたしの勝手な思い込みかもしれないが、椹木の場合は敢えて未整理のままもやもや考えることを好み、まさに人間の生理に根ざした諸現象、そして「予感」や「感情」を重んじているように見える。
また「日本ゼロ年」展(水戸芸術館 現代美術ギャラリー)は「戦後」や「現代美術」という枠組みをリセットする試みであった。それから20年が経ち、かつての出展作家の多くは現在、「現代美術」の主流と見なされている。その「日本ゼロ年」展の流れを汲む「平成美術」展に椹木が連れてきた花粉たちの場合はどうだろう。椹木野衣という生体が持つ思考や感受性、関係性は「大きな固有名」を「細かいデブリ」に分解するのだろうか。椹木は「現代美術」の何を再設定し、何を温存していくのだろうか。 ちなみに、デブリ的なアーティストのあり方はパープルームが2016年から不定期で開催している「ゲルゲル祭」とも共振する部分がある。「ゲルゲル祭」は既存のアート界で活動するソリッドな作家たちに対して、不定形でゲル状の潜伏している表現者にスポットを当てたものだ。「ゲルゲル祭」は村上隆によるGEISAIのようなコンペ形式ではなく、パープルーム予備校生の自宅アパートでひっそりと開催される小規模な展覧会シリーズだ。しかし、だからこそ「評価」に還元できない表現の営みをキャッチできていたように思う。

「本展について」のはずが「平成美術」展の展覧会評の様相を呈してきてしまったのでこの辺で軌道修正するが、本展「Dirty Pollen 悪い場所からの遊離」はパープルームの拠点である相模原での数ヶ月ぶりの展覧会である。「パープルームという集団とはなにか?」また「美術に身を投じることの意味は?」という根本的な問いに正面から向き合う機会としたい。今年の3月に京都大学の工学部情報学科を中退してパープルーム予備校に新入生として加入した大樹、半年前にコロナ禍の影響で地元である新潟で派遣切りにあいパープルーム予備校見習い生になった齊藤孝尚、そしてパープルームメンバーそれぞれの作品はもちろん、シエニーチュアンのエッセイ、わきもとさきの椹木への手紙など、「平成美術」展以降のパープルームの「息づき」を複数の視点から丁寧に紹介したい。

梅津庸一(美術家・パープルーム主宰)




作家のプロフィール


2013年に生まれた相模原を拠点とする美術の運動体パープルーム。
安藤裕美、アラン、わきもとさき、シエニーチュアン、大樹、齊藤孝尚、梅津庸一ほか