星座と出会い系、もしくは絵画とグループ展について

会期|
2019.10.5.-10.14(水・木曜日は休廊)
時間|
15:00-20:00
場所|
パープルームギャラリー
企画|
パープルーム (梅津庸一)
協力|
シュウゴアーツ、パープルーム予備校

本展について



グループショーとは通常、表現様式の類似性や互換性、出自、テーマなどによるクラスタやジャンル分けによって切り取られ組織されます。芸術祭やビエンナーレも規模の大きなグループショーと言えます。
さて、今回パープルームギャラリーで開催される『星座と出会い系、もしくは絵画とグループ展について』には明確なテーマが設定されていません。いわゆる「絵画」のグループ展に分類されます。本展の特徴を挙げるとすれば美大出身者、美大を出ていない者、すでにキャリアを積んだベテラン作家が名を連ねている点でしょう。世の中の多くの展覧会は作家が属する共同体や出自に敏感すぎるきらいがあると思います。本展はそんな昨今の展覧会づくりの現状に対して、もっとおおらかにそして鈍感に出展作家を選べないか、という思いから始まりました。それは企画者が出展作家を恣意的になんとなく選ぶということではありません。共通性だけでなく相違や断絶も含めた関係性を見出すことが可能な「出会い」がわたしたちの間に無数に潜伏しているはずなのです。
しかしながらわたしたちは、はなからそういった「出会い」の可能性を狭めてきたように思います。本展は生まれた地域や出身校、属性などによるクラスタ分けや批評的視座などによる区分けが先行しないタイプの展覧会です。
もっとも、鑑賞者はひとつの展覧会に規定されることなく、様々な展覧会と自らのあらゆる体験のあいだを自由に横断、編集しながら各々が鑑賞するはずです。したがってこの試み自体がお節介なことなのかもしれません。
それでも実際のギャラリーの壁(同一平面上)に出自も在り方も生息地も違う4人の作品が集いそれがひとつの「星座」を形づくる可能性に賭けています。

絵画はこれまで様々な役割を担ってきましたが伝統があるゆえに保守的になりやすく、また物理的に所有しやすいという性質は大きく変化していません。今日も絵画作品は世界中で描かれ続けており、多くの絵画は個人的、形式的、歴史的な諸条件と物理的、概念的制約のもとつくられています。また絵画は時代の変化とともにその都度、同時代の精神や科学あるいは産業(写真、映画、インターネットetc.)を積極的に取り入れてきました。
本来「絵を描くこと」もしくは「絵を見ること」はとてもシンプルな行為だったはずです。しかし今日ではそれは様々な前提が障壁となり、とても厄介で難しいことになってしまったように思います。
本展はそんな状況の中で絵画を偏愛するでも、悲観するでもなく作品同士、あるいは絵画と人との出会いや距離を冷静に再考するための機会になればと思っています。

ところでパープルームギャラリーでは月1回のペースで毎月展覧会を開催してきましたが今回でちょうど10回目を迎えます。様々なことを同時にやりながら展覧会を開催するということに正直疲弊することもありました。それでも常日頃の関心ごとを反映しながら企画や会場構成を考え、時には作品の制作自体に介入するという活動が日常生活と重なっていくことは他では得難い経験になっています。
それにギャラリーを運営することで個人では到底リーチし得ない領域にまでタッチできるということも重要な点です。美術とは、展覧会とは一体なんなのか?またこれまでの「評価」や「通史」はどの程度妥当なものなのか?そんな本質的でともすると素朴すぎる問いにわたしは個人の作家としての活動だけでは折り合いをつけることができませんでした。
美術の世界とわたし個人もしくはパープルームという共同体はボーダーレスにだらしなくつながっているように感じています。

最近、美術というプラットフォームが政治的信条に基づいた連帯と亀裂をはっきり可視化させる場になってしまったように思います。美術はもっと抽象的な次元でみんながシェアできる場なのではないでしょうか。わたしは出自や政治的信条と関係なくいろんな人と一緒に美術に取り組んでいきたい。それは決して「みんなで仲良くしよう」ということではありません。


これまでパープルームギャラリーで開催してきた展覧会やこれから開催されるであろう展覧会が「星座」だとするならば、それがひとつにつながって大きなプラネタリウムのような芸術空間を形成することもあり得るのではないか。そんなことを夢想したりします。それは実際に試みられるかもしれないし、プランの段階で終わってしまうかもしれません。いずれにしても、わたしは作品単体ではなく、このようにして広がったり狭まったりしていく「不定形の炎症」のような連なりにこそ「美術」というものを見ています。その意味で本展『星座と出会い系、もしくは絵画とグループ展について』はそのための小さなリハーサルと言えるかもしれません。



パープルーム(梅津庸一)





作家のプロフィール



シエニーチュアン
1994年愛知県生まれ。パープルーム予備校5期生。
シエニーチュアンは1920年代にシュルレアリスムの作家たちが試みたオートマティスムの手法を援用する。シエニーチュアンは自身を「キャラクター」と自認しているが、絵画作品には直接的にそのアイコンが登場することはない。シエニーチュアンの先行世代である奈良美智やタカノ綾は美術史の外のリソースも取り入れつつも登場人物と世界観を素直に描写している、という点では共通している。その一方でシエニーチュアンはもっとレンジの広い情報を扱おうとしている。目の荒い布地に木炭で描画された線はイメージの生成と崩壊を行き来する。また揮発性油で希釈された絵の具は布に染み込み意図しない「シミ」を形成し、そこに霧状に散布された絵の具が関与してくる。このように複数の絵画言語を素材へのシビアな眼差しによってひとつの作品の中に結合しようとしている。それは絵画という「もの」を作者に直接帰属させず「キャラクターグッズ」として成立させるための研究と言えるかもしれない。本展ではその最初のスタディーが披露される。


金海生
1994年中国山東省煙台市生まれ。東京都在住。
北京の大学で学んだのち、日本に留学。美術予備校を経て美大に通う。
学校をサボりながら絵を描いてきた。海生は自らの記憶や経験をもとにした私小説的な作品づくりに不快感を覚え、絶えず変化することを受け入れながら制作してきたと言う。作品には政治的なアイコンが頻繁に登場するがそれは政治的信条を直接的に表すのもではない。 本展に出展される《老船長》はグレーのシルエットと化した安部首相や頭部が朱色のプーチン大統領、秋田犬、謎のアニメ風のキャラなどが登場し、画面の下の方には引っ掻いて書いた「BAD NEWS」という言葉が確認できるが具体的に何かへの批判や風刺は読みとれない。またゼロ年代の美大生の絵画作品によく見られたようなぞんざいで伸び伸びとしたブラッシュストロークは金海生の絵画における痕跡としての「固有性」と典型的なスタイルであるという意味での「n次創作性」を同時に主張しているように思える。


ユササビ
1988年徳島県生まれ。
本展には出会い系サイトで出会った異性との出会いから別れを綴った作品《どうか傷ついてまいってしまわないように…》が出展される。本作はスマートフォンを思わせるプロポーションの小ぶりのペインティング、実際に相手と交わした言葉(実際の会話とSNS上でのやりとり)が記されたラベル、「LOVE」の文字をかたどったピンクの糸によって構成される。本作でユササビは現在の情報環境の中でメディアごとの速度や性質の違い、記録すること、記憶することへゆるやかに言及している。


小林正人
1957年東京都生まれ。
日本の画家、アーティスト。東京藝術大学美術学部教授。キャンバスを張りながら手で描く制作スタイルや、絵画作品を床に置き立てかけた独創性で知られる。(Wikipediaより)
小林の絵画はある特定の様式に還元しがたい絵画言語を有しているが、現代美術における絵画部門の中の独自性というよりも、たとえば「愛の系譜(仮)」(村山槐多→山田かまち→小林正人)のような関係性を見いだすことが可能なように、美術の領域外の想像力とも積極的に比較検討されるべきかもしれない。またコマーシャルギャラリーや美術館でこれまでつけられてきた価値や評価が一体どういう基準によって決められたのかについても考察したい。本展には鞆の浦のアトリエでつくられた小ぶりの星の新作が出展される。


解説|梅津庸一