常設展Ⅱ

会期|
2020.5.23-5.30(水・木曜日は休廊)
時間|
15:00-20:00
場所|
パープルームギャラリー
企画|
パープルーム
協力|
パープルーム予備校

本展について

前回、パープルームギャラリーで開催した「常設展」はホワイトキューブのギャラリーに作品が端正に並んだ、いわゆる平常時の常設展の雰囲気を再現するような展覧会だった。
今回開催する「常設展Ⅱ」はパープルームギャラリーという場と相模原の街の接触面についてあらためて考え直すところから始まった。パープルームギャラリーは通りに面しており、道ゆく人々がガラス越しに中の様子を伺っていくことも多い。当たり前のことだが、四角に区切られた空間は住居、店舗、ギャラリーと様々な役割を担う。パープルームは性質の違う部屋をたくさん有しており、それぞれが奇妙に折り重なり、閉じたり開いたりしながらパープルームの総体を成してきた。
最近では以前にも増して「家」という自身やその家族が占有できる空間が外よりも安全な場所だとして推奨されている。しかし、わたしたちパープルームにとって「家」とはそもそもそんなに盤石な場所ではない。雨風、そして「外から来る悪いもの」からわたしたちを守ってくれる建物の壁や屋根を維持するためには当然コストがかかる。その維持コストや権利は外部との交渉によってしか得ることができない。そんな今さら確認するまでもない諸条件を前提にこの展覧会はつくられている。展覧会とは仮設のものだが、「家」もまた仮設のものであるとするならば、わたしたちが拠って立つ場所とはいったいどこにあるのだろうか。


本展はギャラリー内に作品を陳列するだけではなく、ギャラリーのファサードに大きな格子を設置した。この格子は隙間だらけなので光や風を遮らない。これは2015年7月にARATANIURANO(当時白銀高輪にあったギャラリー)で開催された「パープルーム大学物語」で採用された柵状の仮設壁が元になっている。「パープルーム大学物語」はおびただしい量の作品と複雑極まりない会場構成によって、情報に満ちた展示空間を実現した。その一方で再展示が不可能という問題点も同時に抱えることになった。パープルームの展覧会が扱ってきた展示を組織するための文法を必要最低限の要素で成立させることも本展では目論まれている。 外から見ればまるで檻の中のような空間に「密室」、「展覧会の模型」、「生活と労働」、「社会構造」、「家」などを主題にした作品が並ぶ。本展では「入れ子状の室内画としての展覧会」が試みられる。つまりそれは展覧会という形式がどのような支持体の上で成立しているのかをあらためて問い直すことだ。展覧会がコンテンツの器でも賑やかしのための催しでもないことを再確認する機会でもある。


2020年5月15日 パープルーム









郊外の美術原理主義国家の法と倫理

パープルームが位置する相模原の風景は、私が10代のほとんどを過ごしたパークシティという茨城県の郊外新興住宅地の風景によく似ている。小学3年生になる時に引っ越してきたその家は、ツーバイフォー工法というアメリカの建売住宅の建築工法で建てられた張子のような家で、壁やドアの内側が空洞であった。以前母親にこの街が好きかと聞いたことがある。特に考えたことはなかったけれど、言われてみれば別にそうでもないとの事だった。この家に決めたのは、家を探しているときにたまたま東京駅にいて、そこからこの分譲住宅地行きのバスがたまたま出ていたので乗って見に来て、キッチンの出窓が気に入ったからとの事だった。新たな土地に家を買うという人生の一大イベントに対してあまりにも受動的な感じがするが、ほとんどの人は偶然どこかの土地に生まれ、自分の意思のようなものを手に入れたその後の人生においても、あらゆる条件の元、住む場所とは多分ほとんどそのように受動的に決められていくものなのかもしれない。私が自分で主体的に行ったと言えるような住む場所に関する選択は、2017年に、20代の後半と30代の全てを過ごしたアメリカを出ると決めたこととそれ以降の話であり、それ以前は住む場所は、主体的な選択とはおよそ呼べないような様々な外的要因によって受動的に決められてきた面が大きい。

しかし、そのような人生に於いても、自らの生活の場を再度主体的に選び取り、土地という偶然性を引き受けなければならない局面が訪れる時は誰にでもあるだろう。アメリカを出ようと決めたのは、自分の住む場所を主体的に選択することを一度やってみたかったのと、まだそれができる環境にあったこと。また自分が敬愛するアメリカ人の私小説家(*)に感化され、私も日本とアメリカという二つの参照軸に加え、三つ目の参照軸が必要だと思って、40代をアジアで過ごそうと思ったのが主な理由だった。2018年から文化庁の在研で1年間滞在した香港では、ビザの為に学校に行かなければならなかったので北京語を学び、「私」と「I」に加え「我」という主語が新しく参入した。そうするとその他の2つに対する自分のバランスがシフトして、逃れられない呪縛だとばかり思っていた日本語の「私」という社会性を欠いたパーソナルな主語と、その他律的なあり方とがリアリティを取り戻し、それを自分の起点として再度能動的に選択し直すことにした。

パープルームを初めて訪問したのは2019年の年末、香港から戻ってきて数ヶ月後であった。香港ではアジアの近現代美術を通した複数の近代や、それぞれの違いを超えて緩やかに連帯して行われる様々な営みを目にした。ニューヨークのような場所では古いと一笑に付されてしまうような、近代に留め置かれたような数々の作品とアーティスト個人の格闘の痕跡を前に、「私」の出自について改めて問われ、それが拠って立つ地盤が組み換わり、17世期からあまり進化していないと言われている版画というメディアを再度主体的に選択してみようと思っていたタイミングだった。世代や国、それぞれの領分を超えた水平の繋がりの構築について真剣に取り組まねばと猛省していた私に、相模原に住む日曜画家と呼ばれるアーティスト達との連帯を掲げたパープルームの展覧会「表現者は街に潜伏している。それはあなたのことであり、わたしのことでもある。」のステイトメントがタイムリーに響いて、これは見に行かなければと思った。実際に足を運んでみたら、そこには当たり前のように作品があり、また、何もない殺伐とした郊外住宅地の一つである相模原に行く経験自体が、フィクションの中に足を踏み入れるようですごく楽しかったことが驚きだった。そこには、自らの活動の基盤としての土地をどのように真剣に捉え直して引き受けていくのかという事も含め、土地と鑑賞者への歩み寄りと、それらに対するホスピタリティとしての重要な実践があった。

彼らの活動の基盤の一つには、主に美大教育を例にした制度・構造批判がある。制度を批評的に見ることのできる人間の多くは、制度の外にいるか、そこから一旦はみ出た経験を持つ者だろう。その批評精神が一体どこから来たのかを梅津氏に聞いた時に、長い事誰とも話が合わず、今も合わないという事を聞いて、内部にいながら確実に浮いてしまっている異邦人としての自分に気がついてしまうことや、異邦人として独立国家を作らなければならなかった切実さのようなものが少し解る気がした。

国家には法が必要で、その制定は制作における判断と同じように、原理的にはある種、独裁的なプロセスでもある。しかしその法がひとりの「私」というパーソナルな主語を起点とし、その人のパーソナリティとパーソナルなバランス感覚とによって権威化を上手く逃れながら、細やかに、時にはその国民のニーズに合わせてパーソナライズされるような、可塑的なものとして緩やかに制定されれば、法のもとの其々が互いに異邦人のまま、馴れ合わず溶け合わずに、個人の語りと視点と課題とが緩やかに交錯する事で稼働する運動体となる。多くの運動が、異質なものの排斥と同質性による馴れ合いに回収されていく現状を見れば、徹底的な異邦人性から始まり、それを担保した上で行われているパープルームの運動がどこに起点を定めているかが解ると思う。

もう一つ付け加えると、パーソナルな領域を社会化・制度化することと、社会的な領域や制度を個人の都合にあわせてパーソナライズすることは違う。前者は表現であり、後者は私物化と呼ばれる。前者が、その運動の倫理を、「私」を起点とした美術原理主義に置いているように見えるパープルーム運動が制度批判を行う際の立ち位置であるだろう。パーソナルであるということは、正直で、丸腰の、初期状態であるということではないだろうか。互いに丸腰であれば、そこにデリケートな緊張関係が生じて、関係性はより微細で複雑なものとなる。それが美術という原理のもとに、排斥はしないが迎合もせずに、互いがドラスティックに平等であるということであり、それこそが、作品があらゆる縛りの中に生きる一点の点でしかない私という個を越えて、誰かに届くかもしれないということの可能性なのではないか。

パープルームは先の常設展で、土地を引き受けることをもう一段階前に進めたように感じた。それはパープルームの運動が何を起点としているかの態度表明であるとともに、行き場のなくなった作品と観客の為に場を開き、実際に近隣のビジネスとの協力関係を結ぶことで、私小説的な「私」の夢想のシミュレーションとして始まったフィクションが、はっきりと現実にはみ出していった。どちらも決して簡単なことではないことは十分承知の上で、美術のエコノミーにおけるサステナビリティーがひとりの人間の生の大きさで終わることと、それがひとりの生の規模を超えて、仲間以外の他人の生や社会の側にはみ出していってしまうこととは原理的に違う。私はこの試みに美術原理主義国家の倫理とフィクションの本当の機能を見て、今回の2度目の常設展に、かつての若き日の丸腰の自分が作った作品がそこに展示されるのをとても嬉しく思っている。

(*)リービ英雄氏


2020年5月16日 播磨みどり









作家のプロフィール

梅津庸一 1982年 山形県生まれ
《密室》(2019-2020年)は部屋を構成する最低限の要素から成る陶芸作品だ。粘土には大きな負荷がかかっており部屋は崩壊の一歩手前で焼きしめられ、その形を保っている。そのほかに2018年ごろから描き始めたドローイングも数点展示される。梅津は美術史や制度を作品内で扱うことが多いが、ドローイングにはそういった傾向があまり見られない。梅津にとってドローイングは純粋な意味でのアトリエであり、手癖や思考の貯蔵庫でもあるようだ。

安藤裕美 1994年 東京都生まれ
《フル・フロンタル展の模型を見る梅津庸一としー没と星川あさこ》(2020年)
パープルーム予備校にて展覧会模型を見る人々の様子を描いた室内画。この作品には障子戸で区切られた二つの部屋、奥の窓、中央の展覧会のマケットと複数の空間が存在している。安藤は19世紀末のフランスの前衛芸術家集団「ナビ派」の様式のアップデートを試みている。

シエニーチュアン 1994年 愛知県生まれ
《浸透圧のせいで、メディアケーキの中に住む場所がありません。》(2020年)
ギャラリー内に設置された格子の仮設壁に展示されている。入り口からの光や風が作品の内部を通り抜けることを想像しながら制作された。自動記述の手法を援用しながら「汚れた板」としての物体と窓としての絵画の枠組みを往復し生成された絵画。

わきもとさき 1994年 東京都生まれ
《チューリップのおうちはわたしとつながっていますなり》(2020年)
自身の身長とほぼ同じ大きさのコラージュ作品。アートと生活の区切りをなくすことを志向しているというよりは、生活、制作、労働が分かち難く結びついている。それが思いもよらない形に結実している。

アラン 1991年 鳥取生まれ
《渡り鳥のゲーム》(2020年)
本作は未完成のゲームであり、多面体から成る球状のオブジェである。
「私はゲームを作るということをしていますが、それは社会を見てその法則を導き出す行為と大きな差はありません。ただ、この方法論では、フレーバーや形式をいくつかのパターンで構成し直すことになる可能性があります。それが悪いことだとは思っていませんが、私は質的な意味で原初のゲームを作りたいと考えています。それがどんなものなのかまだわかりませんが、常識を作り共有することを目的とするものになるのではないかと、現時点では思っています」

播磨みどり 1976年 神奈川県生まれ
《婚約(実家)》(2004年)
播磨は雑誌やネットから拾ってきた画像を使って中身が空洞の張り子のような匿名性の高いオブジェを作ることで知られる作家である。しかし、この作品は播磨作品のなかでも例外的な作品で明確なモチーフが存在している。モチーフは播磨の茨城県にある実家である。よくある郊外の建売住宅で、三井不動産の「パークシティ」という住宅シリーズだという。2004年の播磨の個展『婚約』Gallery Jin(東京)の出品作のひとつ。